映画「怒り」田代編から考える、「信じる」ということ

先日、Amazonプライムビデオで「怒り」を見ました。

 

「怒り」は吉田修一原作で、映画の監督は李相日です。(Google調べ)

吉田修一は「横道世之介」なども書かれているそうですね。映画を見たことはあるけれど、なんかいいなあという印象を持ったことしか覚えていません。すみません。

 

 

しかし「怒り」、これは強烈。

見た後に考え続けられる映画ってなかなかありません。

 

物語は住宅街の夫婦が殺害されるところから始まります。現場には「怒」の血文字が残され、これはただならぬ事件の予感…!そして素性の知れない、犯人の特徴によく似た3人の男の周囲でそれぞれ物語が進行しはじめます。

 

千葉では風俗店で働いていた愛子(宮崎あおい)と田代(松山ケンイチ)の交際、結婚の決意。そこに愛子の父(渡辺謙)も含めた人間模様が描かれます。今回はここに焦点を当てて考えていきます。

 

田代は愛子が家出していた間に漁港にやってきました。無愛想ですが真面目で、仕事っぷりは愛子の父にも信頼されていました。愛子が田代に弁当をつくるようになってから交際が始まり、アパートを借りて同棲し始めます。

 

やがて田代は愛子を完全に信頼し、過去に親が借金をしたまま亡くなり、今は自分がヤクザに追われていること、そのため偽名を使って暮らしていることなど、全てを話します。しかし、愛子の父はニュースで見かけた殺人事件の犯人が田代に似ていると思い、疑いの目をかけます。

 

愛子の父は、愛子のことを「普通じゃない」と何度か口にしています。私は、田代の過去を調べること(殺人事件の犯人ではないかと疑うこと)で愛子が「幸せになれない」理由を探しているようにも感じられました。愛子の父は、田代を「疑う」と同時に愛子を「信じない」という態度をとっています。田代が行方をくらましたとき、愛子の父は少し安心したのではないかと思います。「やっぱりそうだよな」と。

 

一方で愛子自身も自分が「普通ではない」ということを認識し、自分が「普通に幸せにはなれない」と思っています。田代が殺人事件の犯人であるかもしれないという話を聞いたとき、愛子は最初「信じる」という態度をとっていましたが、最後まで貫くことはできず、警察に通報してしまいます。これは「自分は幸せになれない人間である」という答え合わせをしたかのようにも感じられました。

 

しかし検察の結果は白。田代は殺人事件の犯人ではありませんでした。

 

「信じる」という行為は、相手に依存するものではなく、自分自身のみによって行われます。変な話ですが、相手が殺人を犯した現場を見たとしても、自分が「信じる」という態度をとれば、それは成り立つ行為なのです。「信じる」という行為は他人に邪魔されず、どこまでも貫くことができます。

 

愛子と愛子の父は、「幸せになれないのではないか」という疑いの結果、田代を信じることができなかったのではないでしょうか。「信じる」「信じない」はやはり自分の感情の中の出来事で判断されている…。そう思います。